『山中幸盛』 ~三日月に祈った不屈の闘将~ vol.1 - 戦国魂
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「我に七難八苦を与え給え」・・・これは山中鹿介幸盛を語る上で避けて通れないと ... ちなみに「鹿介」は「しかのすけ」と読み、「鹿之助」「鹿ノ助」などと表記する ...
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『山中幸盛』 〜三日月に祈った不屈の闘将〜vol.1
「我に七難八苦を与え給え」・・・これは山中鹿介幸盛を語る上で避けて通れないと言って良いほど有名な文言である。
本稿で採り上げる山中鹿介幸盛(以下鹿介で統一)は天文十四年(1545)八月十五日、月山富田城北麓・出雲国能義郡富田(とだ)庄(島根県安来市広瀬町)に尼子氏の臣・山中三河守満幸の二男として生まれた。
ただし誕生年は天文九年とも伝えられ、また場所は能義郡新宮谷および出雲市・鰐淵寺(がくえんじ)の麓とする説もある。
母は立原佐渡守綱重の女。
兄に甚太郎幸高、叔父に尼子氏の重臣・立原源太兵衛尉久綱、娘婿に亀井琉球守茲矩(これのり)が、また同年生まれの武将には秋月種実・浅井長政・増田長盛・六角義治らがいる。
通称は甚次郎、のち鹿介と称した。
ちなみに「鹿介」は「しかのすけ」と読み、「鹿之助」「鹿ノ助」などと表記する場合も多いが、自筆書状が残っており「鹿介」が正しい。
鹿介は幼い頃から早熟で大力者だったらしく、小瀬甫庵『太閤記』は鹿介の少年期を次のように伝える。
「尋常の児童には面がはりし、眼ざし一廉有て手足太ふ逞しく、をさなわざも大さはやかに、ふてきにも有し。
十歳の比より弓を習ひ、軍法を熱心し、武勇之道を専らとせしが、十三歳の比、手柄なる太刀打をし能首捕てけり。
長となるに及で、器量世に超、心剛に慮深して、人を撫するに、恩沢を清くし、武功に思ひを焦しぬ」
大意としては、鹿介は普通の子供とは顔つきが違い、眼つきが鋭い上に手足も太く、「をさなわざ」つまり子供としての挙動が非常に爽やかかつ不敵であった。
十歳の頃から弓を習い、軍法も熱心に学んで武勇の道をひたすら励んでいたが、十三歳の頃に敵の主だった者と太刀打ちをして首を取り、手柄をたてた。
成長するにつれて器量は世に超え、また剛胆で思慮深く、人と接する際には不公平なくかわいがって武功を挙げることを第一に考えた、ということである。
上記のような人物評は鹿介に限らず軍記物には良く見られるもので、多少誇張の混じった作り話のような感じもする。
しかし小瀬甫庵『太閤記』は元和二年(1616)の成立で、堀尾吉晴の家臣であった甫庵は実際慶長五年(1600)から出雲の地に住んでおり、おそらくその時に地元民から聞いた話を書き留めたものではないかと思われる(同書に堀尾吉晴や鹿介の記述が含まれるのはこの事情による)。
『太閤記』には史実的に誤っている記述も含まれるため全体的な信憑性には疑問もあるものの、鹿介の部分に限っては地元の風評を正しく書き残したのではないかと考えられる。
むろん、これらの風評にも誇大表現はつきものだが、鹿介が「小さい頃より早熟で尋常な子供ではなかった」と伝えられることは、後の活躍から考えても概ね信じて良いのではなかろうか。
鹿介は二男であったため、一時尼子氏の重臣・亀井秀綱の養子となっていた。
しかし父満幸が二十七歳という若さで没し、家督を嗣いだ兄幸高も生来病弱だったため、自ら家督を弟の鹿介に譲ったと伝えられる。
鹿介十六歳のことである。
さて冒頭にも書いたが、山中鹿介と言えば山の端にかかる三日月に向かって「我に七難八苦を与え給え」と祈ったという話があまりにも有名である。
にもかかわらず『太閤記』はじめ江戸時代成立の各書にもその話は見られない。
「十六歳の春甲の立物に半月をしたりけるが、今日より三十日の内に、武勇之誉を取候やうにと、三日月に立願せり」
これは『太閤記』における記述である。
三日月に祈ったとは書かれてあるが、「七難八苦」云々に近い、あるいはそれを連想させるような記述は一切無い。
では、なぜこれが「あまりにも有名」な話なのだろうか。
それは鹿介の生涯を紹介した『三日月の影』(井上赳著)なる作品が、昭和十二年(1937)より第二次大戦で敗戦を迎えるまでの八年間、尋常小学校五年生の国語教科書に載っていたことが最大の要因かと思われる。
「三つ子の魂百まで」というが、小学校で教えられた内容は疑いを抱くことなく信じてしまう傾向が強く、また世間もそれを許容する。
しかも当時は軍国主義の世の中で、鹿介の主家に対する思いと生き様が、当時の子供を教育するには格好の題材だったのである。
「重代の冑(かぶと)」
甚次郎は、兄に呼ばれて座敷へ行った。
見れば、母もそこにゐた。
床の間には、すばらしく大きな鹿の角と三日月の前立との附いた冑がかざつてある。
兄は、改つた口調で言った。
「甚次郎、此の胃は祖先伝来の宝、これをお前にゆづる。
十歳の時、軍に出て敵の首を取った程強いお前のことだ。
どうかりつぱな武士になり、家の名をあげてくれ。
」
甚次郎は、胸がこみ上げるやうに嬉しかった。
「ありかたく頂戴いたします。
」
と言って頭を下げた。
母はそばから言った。
「それにつけて、御主君尼子家の御恩を忘れまいぞ。
尼子家の御威光は、昔にひきかへておとろへるばかり、それをよいことにして、敵の毛利がだんだん攻寄せて来る、成人したら、一日も早く毛利を討って、御威光を昔に返しておくれ。
」
甚次郎の目は、何時の間にか涙で光ってゐた。
甚次郎は、此の日から山中鹿介幸盛と名乗り、心にかたく主家を興すことをちかつた。
さうして、山の端にかゝる三日月を仰いでは、
「願はくは、我に七難八苦を与へ給ヘ」
と祈った。
(※旧字体は改めています)
尼子氏研究の大家である國學院大學名誉教授・米原正義氏は、この作品の参考文献を明治後期に出版された大町桂月『山中鹿之助』あたりではないかとし、有名な「三日月に七難八苦を祈る」云々の話は、各種軍記物の記述を調べた上で桂月の創作ではないかと推測されている。
尼子氏の重臣には違いないが大名になったわけではなく、また強敵毛利氏が主な相手とは言え、戦いも連戦連勝とはいかなかった鹿介が現代においても人気があるのはなぜだろうか。
それは彼の波瀾万丈の生き様が、まさにドラマだからである。
(続く)
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